「明智左馬介の恋」
3月11日 晴れ
この間の京都旅行の日記の二日目に「妙蓮寺椿を見て妙顕寺・宝鏡寺を軽く流して相国寺に向かった」と書きましたが
先日から読んでいた「明智左馬助の恋」(加藤廣著)に妙顕寺が出てきたのでおやっと思って地図を見直してみた。
左馬助の主の光秀が信長を討つ以前のこと、信長が朝廷へ自分の威信を見せつけようと御所の広場で馬揃え(閲兵式のようなもの)をやると言い出し、その奉行(幹事)を光秀に命じる。
朝廷と信長の間に立って大過なく終わらせた後の記述に「二条西洞院の妙顕寺に宿をとった」とありました。
この間行った妙顕寺は「堀川寺の内」バス停のそばだったので、大分北にずれています。別の「妙顕寺」?。
調べてみると元は二条西洞院にあったが、豊臣秀吉が天正11年(1563年)大坂城造営の際に京都の拠点としてこの地を選び妙顕寺他を「寺の内」へ移して「妙顕寺城」を造ったとのことです。
へぇーそんなことがあったんだー、とまあそれだけのことだけど最初に戻って、この「明智左馬助の恋」で加藤廣の「信長の棺」「秀吉の枷」と続いた信長の遺骸を巡る三部作を読み終わりました。
テレビでも放送されて左馬助を市川染五郎(イケメンだね)が演じていた。その前の「信長の棺」も面白く見た。
加藤廣氏はなかなか筆力がある作家だ、次は何を書くのだろうか興味深いところです。

この間の京都旅行の日記の二日目に「妙蓮寺椿を見て妙顕寺・宝鏡寺を軽く流して相国寺に向かった」と書きましたが
先日から読んでいた「明智左馬助の恋」(加藤廣著)に妙顕寺が出てきたのでおやっと思って地図を見直してみた。
左馬助の主の光秀が信長を討つ以前のこと、信長が朝廷へ自分の威信を見せつけようと御所の広場で馬揃え(閲兵式のようなもの)をやると言い出し、その奉行(幹事)を光秀に命じる。
朝廷と信長の間に立って大過なく終わらせた後の記述に「二条西洞院の妙顕寺に宿をとった」とありました。
この間行った妙顕寺は「堀川寺の内」バス停のそばだったので、大分北にずれています。別の「妙顕寺」?。
調べてみると元は二条西洞院にあったが、豊臣秀吉が天正11年(1563年)大坂城造営の際に京都の拠点としてこの地を選び妙顕寺他を「寺の内」へ移して「妙顕寺城」を造ったとのことです。
へぇーそんなことがあったんだー、とまあそれだけのことだけど最初に戻って、この「明智左馬助の恋」で加藤廣の「信長の棺」「秀吉の枷」と続いた信長の遺骸を巡る三部作を読み終わりました。
テレビでも放送されて左馬助を市川染五郎(イケメンだね)が演じていた。その前の「信長の棺」も面白く見た。
加藤廣氏はなかなか筆力がある作家だ、次は何を書くのだろうか興味深いところです。

